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笑福亭鶴瓶やますだおかだ、よゐこやTKOの大先輩に当たるレッツゴー長作さん死去 [芸能人]

 漫才トリオ「レツゴー三匹」のメンバーで、俳優としても活躍していたレツゴー長作(本名・永原誠)さんが1日午後8時35分、肺がんのため大阪市内の病院で死去したことが4日、分かった。74歳だった。所属事務所の松竹芸能が発表した。


さあ!三匹みたいに「レッツゴー!」とよく言った。レッツゴー三匹のネーミングは本当に良い。名前だけでも面白いと思える。
そのメンバーの一人が亡くなった。
どんどんと昭和が終わっていく。


松竹芸能芸能といえば笑福亭鶴瓶やますだおかだ、よゐこやTKOだがそれよりもずっと先輩だ。



レッツゴー長作さんは16年3月末に肺がんが見つかってから入退院を繰り返していたという。

昨夏から抗がん剤の効き目も薄くなり、同年12月には緩和ケアに治療を切り替えた。

今年に入ってからは息をするだけで苦しそうな様子を見せていたが、長男らに「お母さんを大事にせえよ」などと話していたという。
妻、長男、長女、次女が最期を見取った。3日に葬儀、告別式を営んだ。

子供達には偉大な父親だったろう、、
一体何人の人を笑顔にさせたのか?何人の人を勇気付けたのか?



 両親が劇団俳優だった長作さんは、自身も松竹新喜劇に俳優として入門。





その後、1969年に正児(77)、じゅんさん(14年死去)と「レツゴー三匹」を結成した。舞台に登場した際、つかみで「じゅんでーす」「長作でーす」と2人があいさつした後、正児が物まねで「三波春夫でございます」と自己紹介し、両脇の2人にツッコミを入れられるのが“お約束”だった。



 70年に「第1回NHK上方漫才コンテスト」で優秀敢闘賞を受賞すると、73年には「第8回上方漫才大賞」で大賞を受賞するなど人気を博した。90年代以降はトリオとしての活動が減っていったが、長作さんは俳優としてとしても精力的に活動。99年のNHK連続テレビ小説「あすか」などに出演した。



 昨年2月、体調不良のため出演を予定していた舞台「おもろい女」を休演。当時、所属事務所は「重篤な病気ではないが、長期にわたる舞台の仕事は無理と判断したようだ」と説明していた。16年3月27日に大阪・道頓堀角座でのステージが最後の仕事となった。


 
同じ松竹芸能に所属し、ゆかりのあるベテラン漫才師の横山たかしひろし、酒井くにおとおるがコメントを寄せた。

昭和の時代風景を垣間見る回想に思わず目頭が熱くなる。。



 横山たかし「レツゴー三匹と横山たかしひろしがトリを競い合い、切磋琢磨し合いながらライバルとして頑張ってきた事を思い出します。その頃のことを考えると辛いです。皆が亡くなって行くからほんとに辛い。ご冥福をお祈りします」

 横山ひろし「横山たかしひろしがデビューしてすぐの頃、自宅が近かった。ある日、長作さんが家に招待してくれてビフテキをご馳走してもらい、家に泊まらせてもらった。その頃は、ビフテキなんて食べたことが無く、いつかお礼をしないといけないと思い、上方漫才大賞をもらった頃、お肉をお返ししたらすごく喜んでくれた。いつも励ましてくれる存在でした」

 酒井くにお「昔、古い角座の頃、『青山』という服屋でスーツを2着作ってくれた。劇場の合間によく食事に連れて行ってもらい、3人が別々の仕事をするということを相談された事を思い出します。その頃は、別々で活動するなんて考えられなかったのでその事を伝えたら、また3人ですると喜びながら報告してくれました。その頃から三味線を練習していたようです。

芸に対しては、本当に努力家でした。とても可愛がってもらったので、残念です。ご冥福をお祈りします」




 酒井とおる「『青山』という服屋で舞台衣装を作ってもらったり、靴を買ってもらったり、てっちりやステーキ等よく食事にも連れて行ってもらったり、劇場の合間にお茶にも連れて行ってもらった。食事に行ったり、合間のお茶の際には芸談義をすることが多かった。とても芸熱心で、舞台に対して熱心で努力家だった。師匠の散歩コースに僕の家があって、家の下から『とおるちゃん、いてるー?』って呼ばれ、喫茶店に行くこともあった。ご冥福をお祈りします」








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 漫才トリオ「レツゴー三匹」のメンバーで、俳優としても活躍していたレツゴー長作(本名・永原誠)さんが1日午後8時35分、肺がんのため大阪市内の病院で死去したことが4日、分かった。74歳だった。所属事務所の松竹芸能が発表した。


さあ!三匹みたいに「レッツゴー!」とよく言った。レッツゴー三匹のネーミングは本当に良い。名前だけでも面白いと思える。
そのメンバーの一人が亡くなった。
どんどんと昭和が終わっていく。


松竹芸能芸能といえば笑福亭鶴瓶やますだおかだ、よゐこやTKOだがそれよりもずっと先輩だ。



レッツゴー長作さんは16年3月末に肺がんが見つかってから入退院を繰り返していたという。

昨夏から抗がん剤の効き目も薄くなり、同年12月には緩和ケアに治療を切り替えた。

今年に入ってからは息をするだけで苦しそうな様子を見せていたが、長男らに「お母さんを大事にせえよ」などと話していたという。
妻、長男、長女、次女が最期を見取った。3日に葬儀、告別式を営んだ。

子供達には偉大な父親だったろう、、
一体何人の人を笑顔にさせたのか?何人の人を勇気付けたのか?



 両親が劇団俳優だった長作さんは、自身も松竹新喜劇に俳優として入門。





その後、1969年に正児(77)、じゅんさん(14年死去)と「レツゴー三匹」を結成した。舞台に登場した際、つかみで「じゅんでーす」「長作でーす」と2人があいさつした後、正児が物まねで「三波春夫でございます」と自己紹介し、両脇の2人にツッコミを入れられるのが“お約束”だった。



 70年に「第1回NHK上方漫才コンテスト」で優秀敢闘賞を受賞すると、73年には「第8回上方漫才大賞」で大賞を受賞するなど人気を博した。90年代以降はトリオとしての活動が減っていったが、長作さんは俳優としてとしても精力的に活動。99年のNHK連続テレビ小説「あすか」などに出演した。



 昨年2月、体調不良のため出演を予定していた舞台「おもろい女」を休演。当時、所属事務所は「重篤な病気ではないが、長期にわたる舞台の仕事は無理と判断したようだ」と説明していた。16年3月27日に大阪・道頓堀角座でのステージが最後の仕事となった。


 
同じ松竹芸能に所属し、ゆかりのあるベテラン漫才師の横山たかしひろし、酒井くにおとおるがコメントを寄せた。

昭和の時代風景を垣間見る回想に思わず目頭が熱くなる。。



 横山たかし「レツゴー三匹と横山たかしひろしがトリを競い合い、切磋琢磨し合いながらライバルとして頑張ってきた事を思い出します。その頃のことを考えると辛いです。皆が亡くなって行くからほんとに辛い。ご冥福をお祈りします」

 横山ひろし「横山たかしひろしがデビューしてすぐの頃、自宅が近かった。ある日、長作さんが家に招待してくれてビフテキをご馳走してもらい、家に泊まらせてもらった。その頃は、ビフテキなんて食べたことが無く、いつかお礼をしないといけないと思い、上方漫才大賞をもらった頃、お肉をお返ししたらすごく喜んでくれた。いつも励ましてくれる存在でした」

 酒井くにお「昔、古い角座の頃、『青山』という服屋でスーツを2着作ってくれた。劇場の合間によく食事に連れて行ってもらい、3人が別々の仕事をするということを相談された事を思い出します。その頃は、別々で活動するなんて考えられなかったのでその事を伝えたら、また3人ですると喜びながら報告してくれました。その頃から三味線を練習していたようです。

芸に対しては、本当に努力家でした。とても可愛がってもらったので、残念です。ご冥福をお祈りします」




 酒井とおる「『青山』という服屋で舞台衣装を作ってもらったり、靴を買ってもらったり、てっちりやステーキ等よく食事にも連れて行ってもらったり、劇場の合間にお茶にも連れて行ってもらった。食事に行ったり、合間のお茶の際には芸談義をすることが多かった。とても芸熱心で、舞台に対して熱心で努力家だった。師匠の散歩コースに僕の家があって、家の下から『とおるちゃん、いてるー?』って呼ばれ、喫茶店に行くこともあった。ご冥福をお祈りします」








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