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ナムコの創業者中村雅哉さん死去。苦労話しや名言とは?現社長田口三昭の苦労話しとは? [社長 企業]

ナムコ創業の中村雅哉氏が死去。戦時生まれの91歳。アミューズメントからエンターテインメントえ昇華しゲーム大国日本を築き上げた第一人者でもある。


ナムコ創業の中村雅哉氏が死去していた。つまらない子供時代のオアシスでもあったテレビゲーム、ファミコン人気を支えたナムコ創業者。

パックマン、ゼビウス、ドルアーガの塔、ディグダグ。クソゲーの少ないシンプルかつ奥が深いメーカーだった。


 バンダイナムコホールディングスは、元ナムコ代表取締役会長で、バンダイナムコホールディングス最高顧問、バンダイナムコエンターテインメントおよびナムコの名誉相談役を務める中村雅哉氏が1月22日に逝去したと発表した。享年91歳。



 中村雅哉氏は、1955年6月に中村製作所を設立し代表取締役社長に就任。
社名の「ナムコ」はこの中村製作所から取られている。
(Nakamura Amusement Machine Manufacturing Company)


当初はデパートの屋上などによく設置されていた動物型の乗物の玩具やエレメカの開発などを手掛けていた。

 ゲームセンターが隆盛を誇った1970年代後半から1980年代にかけ、「パックマン」、「ゼビウス」など数多くのヒット作を世に送り出した。

2005年にはバンダイ(当時)との経営統合を推進。現在のバンダイナムコグループの礎を気付いた。



 CEDEC 2010では、日本のゲーム産業の基礎を作り上げたとして「特別賞」を受賞している。

CEDECとはセデックとも呼び
日本最大のゲーム開発者向けカンファレンス (コンピューターエンターテイメントデベロッパーズカンファレンス)の略称でもある。



中村 雅哉(なかむら まさや、1925年(大正14年)12月24日 生まれ

バンダイナムコエンターテインメント創業者・名誉相談役、バンダイナムコホールディングス最高顧問。東京都出身。











1948年、横浜工業専門学校(現横浜国立大学)造船科卒業。家業は東京・神田の銃砲店であったが、銃刀法による規制が強いという業界に折り合いを付けられず、

1955年に有限会社中村製作所を設立。横浜の松屋デパート(後に横浜松坂屋本店)屋上に事務所を構え、デパートの屋上遊園用遊具製造・管理を手がける。

1971年より中村製作所の英語名(Nakamura Amusement Machine Manufacturing Company)の略称である「namco」ブランドの使用を開始、1977年には社名をナムコへ改める。

1974年にアタリジャパン(旧社)を買収しアーケードゲーム事業に進出、1980年にリリースした『パックマン』が世界的大ヒットを記録。日本アミューズメントマシン工業協会(JAMMA)会長(後に名誉会長)等を歴任する。

1990年、社長職を専務の真鍋正に譲り会長へ就任するが、1992年に真鍋が健康上の問題から社長を退任。再度、社長職に就き2002年まで務めた。

1999年4月1日、財団法人マルチメディアコンテンツ振興協会 (MMCA) 会長に就任。

2001年に新映像産業推進センターと合併しデジタルコンテンツ協会(DCAJ)に改称した際も会長職に留まり、2006年3月まで務めた。


順風満帆な人生を送ったか?といえばそうでもないようだ。

もちろん、戦前生まれなので誰しも生きていくだけでも苦難な時代に育った。
家が裕福な環境にも思えるが、自身では資金に恵まれていなかったと語っている。

中村雅哉さんにももちろん苦労話しはあったようだ。
しかし自分(中村雅哉さん)はあまり苦労したとは思ってない、と言っていたようだ。それほど人間力があったのだろう。


そんなナムコ創業者の中村雅哉さんは苦労の経験もあるので数多い名言を残している。



※体力のあるものでも賢いものでもなく、変化に対応できるものだけが生き残れる。



※自分はそんなに苦労をしたとは思っていません。会社が大きくなって、もっと社会的な責任を担っていくことができるようになるんだとの気持ちがあったからです。苦労を苦労と思わなかった


※社会から大いに期待され資金援助を受けながら駄目になっていったベンチャーをたくさん見てきました。資金が潤沢だと、ついそれが自分の実力だと勘違いしてしまうのでしょう。苦労をするときには、苦労をさせなくては駄目なんです。私自身も、資金に恵まれていたら、世の中って甘いものだなと思ってしまったかもしれません。


※ベンチャー企業の支援が重要だと言われていますが、私はベンチャーを助けることにはあまり積極的ではないんです。というのも、自らの経験から、自分で苦しんでこそ企業は力をつけていくと考えるからです。




※アタリ・ジャパンの買収も、業界の将来像が描けたから決断できたのです。そしてナムコはアミューズメント産業から、さらに付加価値の高いエンターテインメント産業に脱皮できたのです。


※29歳で会社を起こしてから、いつもどやってお金を集めようかと考えていました。増資は何十回とやりました。出張に行くときに、実際は三等列車を利用しているのに二等列車に乗ったことにして、その差額を蓄積して増資の資金に充てるようなこともしました。そうやって資本金を30万円から50万円、200万円、300万円へと増やしていきました。





以上のような素晴らしい名言を現世に残した。

ナムコの礎を築いた創業者中村雅哉さんの意志は脈々と受け継がれている。


ーーーーーーーーーーーーーー
現社長の田口三昭社長は
「変化に対応できるものだけが生き残れる」と心掛けているようだ。








田口三昭 バンダイナムコホールディングス社長は日本のキャラクターで世界をつなぐと志している。

「機動戦士ガンダム」「ドラゴンボール」など人気アニメーション・マンガを中心にプラモデルや玩具を展開するトイホビー、家庭用・業務用ゲームを中心とするネットワークエンターテインメント、既存の人気映画・音楽のほか新作にも取り組む映像音楽プロデュースの3領域を事業の柱に据える。


ガンダム、ドラゴンボールは世界的な人気を得ている。キャラクターグッズを扱うバンダイの得意分野とゲームのナムコ、うまく事業展開している。

日本の人気キャラはアジアでも人気がある。欧米にもファンがいる。

フランスで開かれる、日本のコンテンツを楽しむイベント「ジャパンエキスポ」では、海賊マンガ「ワンピース」、忍者マンガ「NARUTO」の登場キャラのコスプレ(扮装)をする人も多い事で有名だ。

 キャラクター商品を提供するだけでなく、国境を越えてファン同士がコミュニケーションを取ってつながるといった共通の文化を作る役割も担っていると考えると、ぞくぞくするようなやりがいを感じるという。


腕時計型おもちゃ「妖怪ウォッチ」も大ヒット。

田口三昭社長は順風満帆だったのだろうか?
30代の頃は係長として一番働いていたという。
アパレル、トイ、カード、そのほか新規事業など幅広くチャレンジしたらしい。

ナムコ現社長の田口三昭社長の
自分を変えた本とは。

新田次郎の山岳小説『孤高の人』
だという。

ナムコ現社長の田口三昭さんは登山が趣味で、主人公が一人で何かをやり抜く物語が好きだと語る。

また休日の過ごし方については会社のイベントに出かけて、ユーザーの反応を見ていることが多い。つまり休日でも仕事を考えるストイックさがやはり田口三昭社長にもあるようだ。

順風満帆で苦労話しなどないように思えるが人知れぬ苦労話しはあったのかもしれない。

出身大学は明治学院大学なので受験だって大変だったはずだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■人物略歴
たぐち みつあき
秋田県出身。1977年秋田県立角館高校卒業。1982年明治学院大学法学部卒業後、バンダイ(現バンダイナムコホールディングス)入社。2003年6月取締役。15年6月に社長就任。57歳。

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ナムコの創業者中村雅哉さん死去。苦労話しや名言とは?現社長田口三昭の苦労話しとは? [社長 企業]

ナムコ創業の中村雅哉氏が死去。戦時生まれの91歳。アミューズメントからエンターテインメントえ昇華しゲーム大国日本を築き上げた第一人者でもある。


ナムコ創業の中村雅哉氏が死去していた。つまらない子供時代のオアシスでもあったテレビゲーム、ファミコン人気を支えたナムコ創業者。

パックマン、ゼビウス、ドルアーガの塔、ディグダグ。クソゲーの少ないシンプルかつ奥が深いメーカーだった。


 バンダイナムコホールディングスは、元ナムコ代表取締役会長で、バンダイナムコホールディングス最高顧問、バンダイナムコエンターテインメントおよびナムコの名誉相談役を務める中村雅哉氏が1月22日に逝去したと発表した。享年91歳。



 中村雅哉氏は、1955年6月に中村製作所を設立し代表取締役社長に就任。
社名の「ナムコ」はこの中村製作所から取られている。
(Nakamura Amusement Machine Manufacturing Company)


当初はデパートの屋上などによく設置されていた動物型の乗物の玩具やエレメカの開発などを手掛けていた。

 ゲームセンターが隆盛を誇った1970年代後半から1980年代にかけ、「パックマン」、「ゼビウス」など数多くのヒット作を世に送り出した。

2005年にはバンダイ(当時)との経営統合を推進。現在のバンダイナムコグループの礎を気付いた。



 CEDEC 2010では、日本のゲーム産業の基礎を作り上げたとして「特別賞」を受賞している。

CEDECとはセデックとも呼び
日本最大のゲーム開発者向けカンファレンス (コンピューターエンターテイメントデベロッパーズカンファレンス)の略称でもある。



中村 雅哉(なかむら まさや、1925年(大正14年)12月24日 生まれ

バンダイナムコエンターテインメント創業者・名誉相談役、バンダイナムコホールディングス最高顧問。東京都出身。











1948年、横浜工業専門学校(現横浜国立大学)造船科卒業。家業は東京・神田の銃砲店であったが、銃刀法による規制が強いという業界に折り合いを付けられず、

1955年に有限会社中村製作所を設立。横浜の松屋デパート(後に横浜松坂屋本店)屋上に事務所を構え、デパートの屋上遊園用遊具製造・管理を手がける。

1971年より中村製作所の英語名(Nakamura Amusement Machine Manufacturing Company)の略称である「namco」ブランドの使用を開始、1977年には社名をナムコへ改める。

1974年にアタリジャパン(旧社)を買収しアーケードゲーム事業に進出、1980年にリリースした『パックマン』が世界的大ヒットを記録。日本アミューズメントマシン工業協会(JAMMA)会長(後に名誉会長)等を歴任する。

1990年、社長職を専務の真鍋正に譲り会長へ就任するが、1992年に真鍋が健康上の問題から社長を退任。再度、社長職に就き2002年まで務めた。

1999年4月1日、財団法人マルチメディアコンテンツ振興協会 (MMCA) 会長に就任。

2001年に新映像産業推進センターと合併しデジタルコンテンツ協会(DCAJ)に改称した際も会長職に留まり、2006年3月まで務めた。


順風満帆な人生を送ったか?といえばそうでもないようだ。

もちろん、戦前生まれなので誰しも生きていくだけでも苦難な時代に育った。
家が裕福な環境にも思えるが、自身では資金に恵まれていなかったと語っている。

中村雅哉さんにももちろん苦労話しはあったようだ。
しかし自分(中村雅哉さん)はあまり苦労したとは思ってない、と言っていたようだ。それほど人間力があったのだろう。


そんなナムコ創業者の中村雅哉さんは苦労の経験もあるので数多い名言を残している。



※体力のあるものでも賢いものでもなく、変化に対応できるものだけが生き残れる。



※自分はそんなに苦労をしたとは思っていません。会社が大きくなって、もっと社会的な責任を担っていくことができるようになるんだとの気持ちがあったからです。苦労を苦労と思わなかった


※社会から大いに期待され資金援助を受けながら駄目になっていったベンチャーをたくさん見てきました。資金が潤沢だと、ついそれが自分の実力だと勘違いしてしまうのでしょう。苦労をするときには、苦労をさせなくては駄目なんです。私自身も、資金に恵まれていたら、世の中って甘いものだなと思ってしまったかもしれません。


※ベンチャー企業の支援が重要だと言われていますが、私はベンチャーを助けることにはあまり積極的ではないんです。というのも、自らの経験から、自分で苦しんでこそ企業は力をつけていくと考えるからです。




※アタリ・ジャパンの買収も、業界の将来像が描けたから決断できたのです。そしてナムコはアミューズメント産業から、さらに付加価値の高いエンターテインメント産業に脱皮できたのです。


※29歳で会社を起こしてから、いつもどやってお金を集めようかと考えていました。増資は何十回とやりました。出張に行くときに、実際は三等列車を利用しているのに二等列車に乗ったことにして、その差額を蓄積して増資の資金に充てるようなこともしました。そうやって資本金を30万円から50万円、200万円、300万円へと増やしていきました。





以上のような素晴らしい名言を現世に残した。

ナムコの礎を築いた創業者中村雅哉さんの意志は脈々と受け継がれている。


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現社長の田口三昭社長は
「変化に対応できるものだけが生き残れる」と心掛けているようだ。








田口三昭 バンダイナムコホールディングス社長は日本のキャラクターで世界をつなぐと志している。

「機動戦士ガンダム」「ドラゴンボール」など人気アニメーション・マンガを中心にプラモデルや玩具を展開するトイホビー、家庭用・業務用ゲームを中心とするネットワークエンターテインメント、既存の人気映画・音楽のほか新作にも取り組む映像音楽プロデュースの3領域を事業の柱に据える。


ガンダム、ドラゴンボールは世界的な人気を得ている。キャラクターグッズを扱うバンダイの得意分野とゲームのナムコ、うまく事業展開している。

日本の人気キャラはアジアでも人気がある。欧米にもファンがいる。

フランスで開かれる、日本のコンテンツを楽しむイベント「ジャパンエキスポ」では、海賊マンガ「ワンピース」、忍者マンガ「NARUTO」の登場キャラのコスプレ(扮装)をする人も多い事で有名だ。

 キャラクター商品を提供するだけでなく、国境を越えてファン同士がコミュニケーションを取ってつながるといった共通の文化を作る役割も担っていると考えると、ぞくぞくするようなやりがいを感じるという。


腕時計型おもちゃ「妖怪ウォッチ」も大ヒット。

田口三昭社長は順風満帆だったのだろうか?
30代の頃は係長として一番働いていたという。
アパレル、トイ、カード、そのほか新規事業など幅広くチャレンジしたらしい。

ナムコ現社長の田口三昭社長の
自分を変えた本とは。

新田次郎の山岳小説『孤高の人』
だという。

ナムコ現社長の田口三昭さんは登山が趣味で、主人公が一人で何かをやり抜く物語が好きだと語る。

また休日の過ごし方については会社のイベントに出かけて、ユーザーの反応を見ていることが多い。つまり休日でも仕事を考えるストイックさがやはり田口三昭社長にもあるようだ。

順風満帆で苦労話しなどないように思えるが人知れぬ苦労話しはあったのかもしれない。

出身大学は明治学院大学なので受験だって大変だったはずだ。

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■人物略歴
たぐち みつあき
秋田県出身。1977年秋田県立角館高校卒業。1982年明治学院大学法学部卒業後、バンダイ(現バンダイナムコホールディングス)入社。2003年6月取締役。15年6月に社長就任。57歳。

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