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芸能界から追放された青山ミチが死去、、虚しい人生には涙の太陽しかあがらなかった。。 [芸能人]

歌手の青山ミチさんが死去、芸能界から追放されて生活保護をうけながら生活していた。

罪を犯した虚しい人生には「涙の太陽」しかあがらなかったのか。。。


死因は肺炎(画像)喪主は長男の加藤大輔さん
加藤大輔さんは元ファイターズ野球選手の加藤大輔さんではない。



「ミッチー音頭」や「涙の太陽」等のヒット曲で知られた歌手の青山ミチさんが、
今年1月、肺炎のため死去していたことが明らかになった。67歳だった。

シャブで三回、万引きで1回逮捕された昭和のディーバの虚しい人生とは?

青山ミチ(本名:八木フサ子)さんは神奈川県横浜市出身、1949年2月7日生まれ。
在日米軍人の父親と日本人の母親の間に生まれた、


1961年、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールで入賞したのをきっかけに現・ユニバーサル ミュージックの目にとまり、翌1962年「ひとりぼっちで想うこと」でレコードデビューした。

「ミッチー音頭」やエミー・ジャクソンと競作となった「涙の太陽」が大ヒット!

1960年代後半には生き別れたアメリカ人の父親を捜そうとしてニュースにもなった。


40枚近いシングル、アルバムを発表するなど大活躍だったが、

「風吹く丘で」の発売を控えた1966年11月に覚せい剤で逮捕され、レコードの発売がお蔵入りとなる(後に「亜麻色の髪の乙女」に改題され、ヴィレッジ・シンガーズの歌唱で大ヒットとなる)。

1974年3月に万引きで現行犯逮捕、1978年10月に再び覚せい剤で逮捕され、芸能界から追放状態となる。









その後、1999年にも3度目の覚せい剤による逮捕で実刑判決を受け、表舞台から完全に姿を消した。

何と三回もシャブで捕まっていたのだ。

完全なるシャブ中だったのだろう。

晩年はシャブはやめれたのだろうか?
一世を風靡した青山ミチさんの心境とはどんなものだったのだろう。

その後は長らく消息不明だったが、娘と2人で生活保護を受けながら暮らしていることがテレビ番組「あの人は今!?」の調査でわかった。



2017年1月、急性肺炎のため死去。67歳没




なお葬儀は親族で営まれ、喪主は長男の加藤大輔(元野球選手の加藤大輔さんではない)が務めたとのこと。


虚しすぎる人生の昭和のディーバだったが、どこからの情報かはわからないが、2017年の現在も気にかけてくれる人がいるのだ。

思い出してくれる人がたくさんいる。

また新たに青山ミチを知った人もいるし、YouTubeで曲を聴いた人もいるだろう。

一気に心を奪われてファンになってしまった人もいるかもしれない。

恐らく逮捕されてからの人生は虚しい人生だったかもしれない、、しかし多くの人の心を動かし感動させた事は間違いない。

昭和のディーバ、青山ミチは虚しい人生だけではないのだ。
訃報が流れた2017年2月のその日は生憎の雨。
涙の太陽となった。

しかし雲の上には明るい太陽が光っているはずだ。


心よりご冥福をお祈りします。









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芸能界から追放された青山ミチが死去、、虚しい人生には涙の太陽しかあがらなかった。。:B-BOYが発信する生活ニュース:So-netブログ
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芸能界から追放された青山ミチが死去、、虚しい人生には涙の太陽しかあがらなかった。。 [芸能人]

歌手の青山ミチさんが死去、芸能界から追放されて生活保護をうけながら生活していた。

罪を犯した虚しい人生には「涙の太陽」しかあがらなかったのか。。。


死因は肺炎(画像)喪主は長男の加藤大輔さん
加藤大輔さんは元ファイターズ野球選手の加藤大輔さんではない。



「ミッチー音頭」や「涙の太陽」等のヒット曲で知られた歌手の青山ミチさんが、
今年1月、肺炎のため死去していたことが明らかになった。67歳だった。

シャブで三回、万引きで1回逮捕された昭和のディーバの虚しい人生とは?

青山ミチ(本名:八木フサ子)さんは神奈川県横浜市出身、1949年2月7日生まれ。
在日米軍人の父親と日本人の母親の間に生まれた、


1961年、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールで入賞したのをきっかけに現・ユニバーサル ミュージックの目にとまり、翌1962年「ひとりぼっちで想うこと」でレコードデビューした。

「ミッチー音頭」やエミー・ジャクソンと競作となった「涙の太陽」が大ヒット!

1960年代後半には生き別れたアメリカ人の父親を捜そうとしてニュースにもなった。


40枚近いシングル、アルバムを発表するなど大活躍だったが、

「風吹く丘で」の発売を控えた1966年11月に覚せい剤で逮捕され、レコードの発売がお蔵入りとなる(後に「亜麻色の髪の乙女」に改題され、ヴィレッジ・シンガーズの歌唱で大ヒットとなる)。

1974年3月に万引きで現行犯逮捕、1978年10月に再び覚せい剤で逮捕され、芸能界から追放状態となる。









その後、1999年にも3度目の覚せい剤による逮捕で実刑判決を受け、表舞台から完全に姿を消した。

何と三回もシャブで捕まっていたのだ。

完全なるシャブ中だったのだろう。

晩年はシャブはやめれたのだろうか?
一世を風靡した青山ミチさんの心境とはどんなものだったのだろう。

その後は長らく消息不明だったが、娘と2人で生活保護を受けながら暮らしていることがテレビ番組「あの人は今!?」の調査でわかった。



2017年1月、急性肺炎のため死去。67歳没




なお葬儀は親族で営まれ、喪主は長男の加藤大輔(元野球選手の加藤大輔さんではない)が務めたとのこと。


虚しすぎる人生の昭和のディーバだったが、どこからの情報かはわからないが、2017年の現在も気にかけてくれる人がいるのだ。

思い出してくれる人がたくさんいる。

また新たに青山ミチを知った人もいるし、YouTubeで曲を聴いた人もいるだろう。

一気に心を奪われてファンになってしまった人もいるかもしれない。

恐らく逮捕されてからの人生は虚しい人生だったかもしれない、、しかし多くの人の心を動かし感動させた事は間違いない。

昭和のディーバ、青山ミチは虚しい人生だけではないのだ。
訃報が流れた2017年2月のその日は生憎の雨。
涙の太陽となった。

しかし雲の上には明るい太陽が光っているはずだ。


心よりご冥福をお祈りします。









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