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ディズニーリゾートのオリエンタルランド社長達の凄さとは?感動的ですらある。 [社長 企業]

日本人に夢を!夢の国ディズニーランドを作りあげた歴代社長が凄い。

東京ディズニーリゾートの独自戦略

オリエンタルランドの凄さはディズニーランドが凄いから、、一般人はそれくらいしかわからない。


東京ディズニーランドの凄さはわかるが、東京ディズニーリゾートを経営しているのがオリエンタルランドという事も興味のない人は知らないはずだ。


ディズニーランドの強気な値上げも客は離れない。世界で唯一の「夢の国」だから、多くの人は行きたがる。

何回も何回も行きたがる、どんなに混んでても楽しめる夢の国を作りあげたオリエンタルランドの凄さとは?










オリエンタルランドの歴代社長は以下の通り、それぞれの社長がしっかりと役割を果たして会社を成長させてきたのだろう。


川﨑千春(創業者・初代社長・初代会長)
社長就任期間は1960年~1978年。


オリエンタルランドの初代代表取締社長として東京ディズニーランドのきっかけを作った人物として知られる。


1958年1月、アメリカ合衆国へ渡った際、開業間もないディズニーランドを目にして、強い感銘を受けた。



川﨑千春はディズニーランドを日本へ誘致することを考えオリエンタルランドの大規模レジャー施設事業として、ディズニーランドの誘致を主導した。


1961年1月にはアメリカのウォルト・ディズニー・プロダクションズ(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)を訪問。その後十数年にもわたり、ディズニー側との交渉に尽力。


彼がいなければ現在の夢の国はなかった。

当時からしたら『日本にディズニーランドを』という発想はとてつもない話しだったという。

オリエンタルに初代社長は東大卒。


凄い。




高橋政知(二代目社長・二代目会長)

1913年9月4日年生まれ

2000年1月31日(86歳没)

社長歴は1978年~1988年 

福島県福島市生まれ。1961年にオリエンタルランドへ専務として入社。1978年8月に第2代同社社長に就任する。

千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けた補償交渉を担当した後、「東京ディズニーランド」の建設のために、ディズニー社との交渉などを担当。



その後、世界初の「海」をテーマにしたディズニーパークである「東京ディズニーシー」をはじめとした「東京ディズニーリゾート」の実現に大きな役割を果たした。


東京ディズニーシーが完成間近となった2000年1月31日、心不全のため東京都港区の病院で死去。享年86


酒豪としても知られ漁師達を説得するのに大いに役立ったという。 またディズニーランド2代目社長の高橋政知は六尺二十貫という体躯(180センチ程75キロくらい)で喧嘩も強かったという

これは意外だ。
大企業の社長は頭が良くて大人しく優等生のイメージだが、2代目オリエンタルランド社長高橋は大酒飲みで喧嘩も強かったという。




高橋政知2代目社長が入社した当時のオリエンタルランドは京成電鉄本社内の片隅に三つばかりの机が置かれた場所が「本社」だったという。


社員わずか三名、実働部隊は「高橋」ただ一人という状態だった。


そこから並々ならぬ努力を重ねて東京ディズニーランドはオープン


オープンした1983年4月15日には2万6,000人もの入園客を迎え、「グランドオープニングセレモニー」を開催することとなった。川崎が、1958年1月に「ディズニーランド」というものに出会い、強い感銘を受けて以来25年の歳月が経過していた。当時相談役に就いていた川崎は、長年の夢が叶った喜びを隠すことができず、涙ぐんでいた。それを見た高橋も、感激の面持ちだった。


並々ならぬ努力と苦労があった
のだろう、



初代社長の川崎さんの涙がそれを物語っていそうだ。。

感動的な話しだ。








森光明(三代目社長)
1988年~1992年

1988年4月に高橋政知代表取締役社長の妻・弘子さんが心臓病の悪化した事をきっかけに、同年6月25日付で同社の3代目代表取締役社長に就任。


1988年4月15日の東京ディズニーランド開園5周年記者会見でディズニー・ハリウッド・スタジオの日本版・「ディズニー・ハリウッド・マジック」(1989年11月に「ディズニー・ハリウッド・スタジオ・テーマパーク」に正式検定)建設に積極的だった、その後頓挫したが功績は大きい。

1992年1月9日に心筋梗塞を起こし東京都渋谷区の病院に入院するも、同年1月11日午後1時13分に帰らぬ人となった(享年68歳)







加藤康三(四代目社長・三代目会長)
社長歴1992年~1995年



1953年に東京大学農学部卒業と同時に千葉県庁に入庁。水産部長を経て、1985年にオリエンタルランドに移籍し専務取締役となる。


1992年1月9日に森光明社長が心筋梗塞で急死した為、4代目代表取締役社長に就任。



4代目オリエンタルランド社長森光明は3年で社長から会長になったが、100%出資子会社を数多く設立!

「舞浜コーポレーション」

「舞浜リゾートホテルズ」

「舞浜リゾートライン」
「グリーンアンドアーツ」
「フォトワークス」
「デザインファクトリー」
「ベイフードサービス」
「舞浜ビジネスサービス」
「イクスピアリ」
「アールシー・ジャパン」
「リゾートクリーニングサービス」
「舞浜ビルメンテナンス」
「オーエルシー・キッチンテクノ」を設立


2001年9月4日に東京ディズニーシーを開園。


2002年4月1日 に「ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン」100%出資子会社「リテイルネットワークス」の全株式を取得し完全子会社化、同時にディズニーとライセンス契約を締結し日本国内のディズニーストアの経営に着手し、同年9月24日にすべての役目を終えたかのように退社した。





1995年6月に高橋が相談役に退き、3代目の代表取締役会長に就任。加賀見俊夫に社長の座をに譲った。








加賀見俊夫(五代目社長、四代目会長)
社長歴1995年~2005年

世界で唯一の「ディズニーシー」、その計画中、加賀見は「モア、ロマンティック」と繰り返したという。それは、「日本だけに存在するもの」を象徴する言葉だった


加賀見俊夫は京成電鉄からオリエンタルランドに転籍し、1995年に社長に就任すると、東京ディズニーシーやホテル、ショッピングモールなどを建設。日本一の「リゾート」に作り上げたのは5代目加賀見社長と言われている。




1936年 東京都生まれ。
1958年 慶応大学法学部卒業、京成電鉄入社
1972年 出向先のオリエンタルランドに正式入社

1995年 社長就任
2005年 会長兼CEOに就任




福島祥郎(六代目社長)
社長歴2005年~2009年

アメリカに渡ってのディスニーランドとの交渉。浦安での漁業補償交渉でも当時若手平社員であったが、大きな貢献をしている





上西京一郎(七代目社長・現職)
社長歴2009年~
上西 京一郎(うえにし きょういちろう、1958年1月15日)はオリエンタルランド社長。

東京ディズニーリゾートの運営を行うオリエンタルランドの代表取締役社長COO。千葉県市川市在住。


1958年 東京都新宿区生まれ。
中央大学附属中学校・高等学校卒業。


1980年3月 中央大学文学部卒業。 

1980年4月 オリエンタルランド入社(総務部配属)。
スポンサー業務部。
1995年 総務部秘書役。
総務部長。

2009年4月 第7代目代表取締役社長・COO(代表執行役)


在任中の2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で、運営している東京ディズニーリゾートも震度6弱を観測し駐車場の一部液状化やアトラクション外壁の一部損傷、さらに東京ディズニーランド・東京ディズニーシー両パークの1か月以上もの休業措置という大きな影響を受け会社にも大きな損害となったが、社長辞任などを示唆することは無く代表としてしっかりと務め続けた。



東日本大震災でのディズニーランドの対応は本当に神がかっていたという。



「広い場所で、お座りになって下さい」と、一人一人に笑顔で声をかけ、ゲストの不安を取り除くように努めた。


落下物から頭を守るため、不安を取り除く為に「店頭に置かれているぬいぐるみ」をゲストに手渡した。

クッキーを配ったり、安全の確保ができたら禁断のバックヤードを解放し安全な場所への避難を促した、しかし夢
壊れないようにキャストはペンライトで光の道を作り、配線や基盤剥き出しの夢の国を支えるリアルな裏側バックヤードさえも夢の国へと演出したのだ。


夜食には食料や毛布を無理で提供したという、大量の食料が備蓄してあるという。



驚くべき事はディズニーランドでは毎年、180回にも及ぶ「震災訓練」をしていたという。2日に一回程のペースで震災訓練をしていてキャストの判断に任せる、お客様第一に考えて園内の物はどう使っても良いと訓練されていたという。

その結果

1万人にも及ぶキャストは、それぞれが各自の判断で対処したという。


東日本大震災の翌日からディズニーランドは一時閉園し、復興に努め、約1ヶ月後の4月15日に再び開園した。

再園時には、およそ1万人にも及ぶディズニーファンが並んだという。












●ディズニーリゾート

年間入園者3100万人を誇り、30周年の去年は過去最高の売り上げを達成した東京ディズニーリゾート(TDR)。客の9割がリピーターであり、「また来たい」と思わせ続けることで繁栄してきた。


だが、その強さの秘密は、実はディズニーのキャラクターによる集客力だけではない。独自の戦略でTDRを成功に導いてきたのが、日本のオリエンタルランド。


創業1960年。鉄道会社の男たちが「日本にも本格的な娯楽を」と誘致に挑んだのが、この「夢の国」だった。だから、世界に5カ所あるディズニーランドの中で、資本関係のない外部企業が運営するのはTDRだけ





オリエンタルランドは、米ディズニー社とのライセンス契約のもとTDRを運営する、東証一部上場の日本企業。客に「また来たい」と思ってもらえるよう、日本独自の戦略を展開してきた。


客を魅了するアトラクションなどには惜しみなく投資。開業後の投資額は5000億円以上に上る。


またTDR内のキャラクターグッズは、日本人の好みを知り尽くしたオリエンタルランドがほぼ独自に企画、開発している。だからTDRではグッズの売り上げが1400億円と、チケット収入に次いで多いのだ。


この最強テーマパークを支えるのは、開園から1日も欠かさず続けてきた聞き取り調査などの地道な努力。「日本人による日本人のための」徹底したコンテンツ開発が、成功を生み出している。




机がわずか3つしかない、小さな会社…。 だが当時の社長が「日本にも本格的な娯楽を」と夢を抱き、ディズニーランド誘致へと動き出す。そして幾多の壁を乗り越え、ついに1983年、東京ディズニーランドは開業する。
1万9000人がアルバイト!会社がスタッフを魅了し、スタッフが客を魅了する!
TDRの客が感動する理由の1つに、「キャスト」による接客レベルの高さがある。実は彼らのほとんどはアルバイト。


その数、計1万9000人。だがマニュアルは最低限。何より求められるのは、「客のために何がベストか」を自分の頭で考えて行動すること。 ある日、閉園後のTDRにたくさんの人が。実はこの日はアルバイトをもてなす日。この日ばかりはミッキーたちもアルバイトたちのためだけに踊る。乗り物は乗り放題。

もてなすのは、オリエンタルランドの社員だ。「会社がキャストを大事にし、キャストが客を大事にする」という好循環が生まれている。

もはやモンスター企業、ここまで洗練されたアルバイトはいないかもしれない。



ディズニーリゾートの歴史を見ていくと本当に頭が下がるしディズニーリゾートへ高いお金を出してでも行きたい理由が何となくわかる。



さらに新しい施設も計画中と噂だ。

ディズニーリゾート、オリエンタルランドの挑戦は続く。 






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ディズニーリゾートのオリエンタルランド社長達の凄さとは?感動的ですらある。 [社長 企業]

日本人に夢を!夢の国ディズニーランドを作りあげた歴代社長が凄い。

東京ディズニーリゾートの独自戦略

オリエンタルランドの凄さはディズニーランドが凄いから、、一般人はそれくらいしかわからない。


東京ディズニーランドの凄さはわかるが、東京ディズニーリゾートを経営しているのがオリエンタルランドという事も興味のない人は知らないはずだ。


ディズニーランドの強気な値上げも客は離れない。世界で唯一の「夢の国」だから、多くの人は行きたがる。

何回も何回も行きたがる、どんなに混んでても楽しめる夢の国を作りあげたオリエンタルランドの凄さとは?










オリエンタルランドの歴代社長は以下の通り、それぞれの社長がしっかりと役割を果たして会社を成長させてきたのだろう。


川﨑千春(創業者・初代社長・初代会長)
社長就任期間は1960年~1978年。


オリエンタルランドの初代代表取締社長として東京ディズニーランドのきっかけを作った人物として知られる。


1958年1月、アメリカ合衆国へ渡った際、開業間もないディズニーランドを目にして、強い感銘を受けた。



川﨑千春はディズニーランドを日本へ誘致することを考えオリエンタルランドの大規模レジャー施設事業として、ディズニーランドの誘致を主導した。


1961年1月にはアメリカのウォルト・ディズニー・プロダクションズ(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)を訪問。その後十数年にもわたり、ディズニー側との交渉に尽力。


彼がいなければ現在の夢の国はなかった。

当時からしたら『日本にディズニーランドを』という発想はとてつもない話しだったという。

オリエンタルに初代社長は東大卒。


凄い。




高橋政知(二代目社長・二代目会長)

1913年9月4日年生まれ

2000年1月31日(86歳没)

社長歴は1978年~1988年 

福島県福島市生まれ。1961年にオリエンタルランドへ専務として入社。1978年8月に第2代同社社長に就任する。

千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けた補償交渉を担当した後、「東京ディズニーランド」の建設のために、ディズニー社との交渉などを担当。



その後、世界初の「海」をテーマにしたディズニーパークである「東京ディズニーシー」をはじめとした「東京ディズニーリゾート」の実現に大きな役割を果たした。


東京ディズニーシーが完成間近となった2000年1月31日、心不全のため東京都港区の病院で死去。享年86


酒豪としても知られ漁師達を説得するのに大いに役立ったという。 またディズニーランド2代目社長の高橋政知は六尺二十貫という体躯(180センチ程75キロくらい)で喧嘩も強かったという

これは意外だ。
大企業の社長は頭が良くて大人しく優等生のイメージだが、2代目オリエンタルランド社長高橋は大酒飲みで喧嘩も強かったという。




高橋政知2代目社長が入社した当時のオリエンタルランドは京成電鉄本社内の片隅に三つばかりの机が置かれた場所が「本社」だったという。


社員わずか三名、実働部隊は「高橋」ただ一人という状態だった。


そこから並々ならぬ努力を重ねて東京ディズニーランドはオープン


オープンした1983年4月15日には2万6,000人もの入園客を迎え、「グランドオープニングセレモニー」を開催することとなった。川崎が、1958年1月に「ディズニーランド」というものに出会い、強い感銘を受けて以来25年の歳月が経過していた。当時相談役に就いていた川崎は、長年の夢が叶った喜びを隠すことができず、涙ぐんでいた。それを見た高橋も、感激の面持ちだった。


並々ならぬ努力と苦労があった
のだろう、



初代社長の川崎さんの涙がそれを物語っていそうだ。。

感動的な話しだ。








森光明(三代目社長)
1988年~1992年

1988年4月に高橋政知代表取締役社長の妻・弘子さんが心臓病の悪化した事をきっかけに、同年6月25日付で同社の3代目代表取締役社長に就任。


1988年4月15日の東京ディズニーランド開園5周年記者会見でディズニー・ハリウッド・スタジオの日本版・「ディズニー・ハリウッド・マジック」(1989年11月に「ディズニー・ハリウッド・スタジオ・テーマパーク」に正式検定)建設に積極的だった、その後頓挫したが功績は大きい。

1992年1月9日に心筋梗塞を起こし東京都渋谷区の病院に入院するも、同年1月11日午後1時13分に帰らぬ人となった(享年68歳)







加藤康三(四代目社長・三代目会長)
社長歴1992年~1995年



1953年に東京大学農学部卒業と同時に千葉県庁に入庁。水産部長を経て、1985年にオリエンタルランドに移籍し専務取締役となる。


1992年1月9日に森光明社長が心筋梗塞で急死した為、4代目代表取締役社長に就任。



4代目オリエンタルランド社長森光明は3年で社長から会長になったが、100%出資子会社を数多く設立!

「舞浜コーポレーション」

「舞浜リゾートホテルズ」

「舞浜リゾートライン」
「グリーンアンドアーツ」
「フォトワークス」
「デザインファクトリー」
「ベイフードサービス」
「舞浜ビジネスサービス」
「イクスピアリ」
「アールシー・ジャパン」
「リゾートクリーニングサービス」
「舞浜ビルメンテナンス」
「オーエルシー・キッチンテクノ」を設立


2001年9月4日に東京ディズニーシーを開園。


2002年4月1日 に「ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン」100%出資子会社「リテイルネットワークス」の全株式を取得し完全子会社化、同時にディズニーとライセンス契約を締結し日本国内のディズニーストアの経営に着手し、同年9月24日にすべての役目を終えたかのように退社した。





1995年6月に高橋が相談役に退き、3代目の代表取締役会長に就任。加賀見俊夫に社長の座をに譲った。








加賀見俊夫(五代目社長、四代目会長)
社長歴1995年~2005年

世界で唯一の「ディズニーシー」、その計画中、加賀見は「モア、ロマンティック」と繰り返したという。それは、「日本だけに存在するもの」を象徴する言葉だった


加賀見俊夫は京成電鉄からオリエンタルランドに転籍し、1995年に社長に就任すると、東京ディズニーシーやホテル、ショッピングモールなどを建設。日本一の「リゾート」に作り上げたのは5代目加賀見社長と言われている。




1936年 東京都生まれ。
1958年 慶応大学法学部卒業、京成電鉄入社
1972年 出向先のオリエンタルランドに正式入社

1995年 社長就任
2005年 会長兼CEOに就任




福島祥郎(六代目社長)
社長歴2005年~2009年

アメリカに渡ってのディスニーランドとの交渉。浦安での漁業補償交渉でも当時若手平社員であったが、大きな貢献をしている





上西京一郎(七代目社長・現職)
社長歴2009年~
上西 京一郎(うえにし きょういちろう、1958年1月15日)はオリエンタルランド社長。

東京ディズニーリゾートの運営を行うオリエンタルランドの代表取締役社長COO。千葉県市川市在住。


1958年 東京都新宿区生まれ。
中央大学附属中学校・高等学校卒業。


1980年3月 中央大学文学部卒業。 

1980年4月 オリエンタルランド入社(総務部配属)。
スポンサー業務部。
1995年 総務部秘書役。
総務部長。

2009年4月 第7代目代表取締役社長・COO(代表執行役)


在任中の2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で、運営している東京ディズニーリゾートも震度6弱を観測し駐車場の一部液状化やアトラクション外壁の一部損傷、さらに東京ディズニーランド・東京ディズニーシー両パークの1か月以上もの休業措置という大きな影響を受け会社にも大きな損害となったが、社長辞任などを示唆することは無く代表としてしっかりと務め続けた。



東日本大震災でのディズニーランドの対応は本当に神がかっていたという。



「広い場所で、お座りになって下さい」と、一人一人に笑顔で声をかけ、ゲストの不安を取り除くように努めた。


落下物から頭を守るため、不安を取り除く為に「店頭に置かれているぬいぐるみ」をゲストに手渡した。

クッキーを配ったり、安全の確保ができたら禁断のバックヤードを解放し安全な場所への避難を促した、しかし夢
壊れないようにキャストはペンライトで光の道を作り、配線や基盤剥き出しの夢の国を支えるリアルな裏側バックヤードさえも夢の国へと演出したのだ。


夜食には食料や毛布を無理で提供したという、大量の食料が備蓄してあるという。



驚くべき事はディズニーランドでは毎年、180回にも及ぶ「震災訓練」をしていたという。2日に一回程のペースで震災訓練をしていてキャストの判断に任せる、お客様第一に考えて園内の物はどう使っても良いと訓練されていたという。

その結果

1万人にも及ぶキャストは、それぞれが各自の判断で対処したという。


東日本大震災の翌日からディズニーランドは一時閉園し、復興に努め、約1ヶ月後の4月15日に再び開園した。

再園時には、およそ1万人にも及ぶディズニーファンが並んだという。












●ディズニーリゾート

年間入園者3100万人を誇り、30周年の去年は過去最高の売り上げを達成した東京ディズニーリゾート(TDR)。客の9割がリピーターであり、「また来たい」と思わせ続けることで繁栄してきた。


だが、その強さの秘密は、実はディズニーのキャラクターによる集客力だけではない。独自の戦略でTDRを成功に導いてきたのが、日本のオリエンタルランド。


創業1960年。鉄道会社の男たちが「日本にも本格的な娯楽を」と誘致に挑んだのが、この「夢の国」だった。だから、世界に5カ所あるディズニーランドの中で、資本関係のない外部企業が運営するのはTDRだけ





オリエンタルランドは、米ディズニー社とのライセンス契約のもとTDRを運営する、東証一部上場の日本企業。客に「また来たい」と思ってもらえるよう、日本独自の戦略を展開してきた。


客を魅了するアトラクションなどには惜しみなく投資。開業後の投資額は5000億円以上に上る。


またTDR内のキャラクターグッズは、日本人の好みを知り尽くしたオリエンタルランドがほぼ独自に企画、開発している。だからTDRではグッズの売り上げが1400億円と、チケット収入に次いで多いのだ。


この最強テーマパークを支えるのは、開園から1日も欠かさず続けてきた聞き取り調査などの地道な努力。「日本人による日本人のための」徹底したコンテンツ開発が、成功を生み出している。




机がわずか3つしかない、小さな会社…。 だが当時の社長が「日本にも本格的な娯楽を」と夢を抱き、ディズニーランド誘致へと動き出す。そして幾多の壁を乗り越え、ついに1983年、東京ディズニーランドは開業する。
1万9000人がアルバイト!会社がスタッフを魅了し、スタッフが客を魅了する!
TDRの客が感動する理由の1つに、「キャスト」による接客レベルの高さがある。実は彼らのほとんどはアルバイト。


その数、計1万9000人。だがマニュアルは最低限。何より求められるのは、「客のために何がベストか」を自分の頭で考えて行動すること。 ある日、閉園後のTDRにたくさんの人が。実はこの日はアルバイトをもてなす日。この日ばかりはミッキーたちもアルバイトたちのためだけに踊る。乗り物は乗り放題。

もてなすのは、オリエンタルランドの社員だ。「会社がキャストを大事にし、キャストが客を大事にする」という好循環が生まれている。

もはやモンスター企業、ここまで洗練されたアルバイトはいないかもしれない。



ディズニーリゾートの歴史を見ていくと本当に頭が下がるしディズニーリゾートへ高いお金を出してでも行きたい理由が何となくわかる。



さらに新しい施設も計画中と噂だ。

ディズニーリゾート、オリエンタルランドの挑戦は続く。 






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