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日本一のドヤ街歌舞伎町のカラオケ屋の店長からダメ社員を経験して大社長になった男!! [社長 企業]

歌舞伎町のカラオケ店長から大成功を遂げた社長がいる。

30代で大企業社長になったのだ!!!まさに底から這い上がるジャパニーズドリームを地で行く社長だ、しかし!!なんとその後独立したという波乱万丈な社長、、、

~それが川口徹だ


川口徹は現株式会社トラセンスの代表取締役だ。

大学卒業後、第一興商、ホテル・アミューズメント企業で営業及び店舗マネージャーを経験、。つまりはカラオケ屋である。

その前や大学時代はミュージシャンとして活動していたという。

musicianを目指していた者に共感を覚える人は少なくない。
そしてミュージシャン経験者は大概苦労人でもある。


川口徹のサクセスストーリーはミュージシャンからはじまったといっても過言ではないかもしれない。

まずは経歴
大学卒業後、第一興商、ホテル・アミューズメント企業で営業及び店舗マネージャーを経験
1997年世界最大級の脳力開発企業エス・エス・アイに、
BtoC営業兼脳力開発インストラクターとして入社。
2年目に年間個人売上2億円を超すトップセールス賞及び、
ベストセールスマネージャー賞を受賞し営業本部長に昇進。
翌年にはプロパーとして最速最年少で取締役就任。
250名を超える組織のマネージャーとして、営業、出版、研修、カスタマーサポート部門を統括し、
会社を業界世界最大の売上へ成長せることに貢献。
2007年5月株式会社エス・エス・アイ代表取締役に就任。
創業者で日本の自己啓発業界のパイオニアである田中孝顕氏を始め、
国内外の権威からの直接指導、業務提携を経験し、2010年12月独立。





以上が川口社長の簡単な経歴である

川口徹の経歴だけみると順風満帆にみえるが

じつは波乱万丈の連続だったという



■1:ミュージシャン志望で山梨から上京。卒業後は歌舞伎町で働く日々
自己啓発の成功プログラム販売でトップセールスに輝き、社長まで務めた川口さんだが、
若い時は自己啓発とも営業とも縁のない、多分どこにでもいる一青年だった。

生まれは山梨県富士吉田市。
大学進学時に上京して東京に出てきた。
夢はミュージシャン。

大学時代は先輩とバンドを組み、音楽プロダクションに所属。
なんと音楽でお金をもらっていたという。

「その時は音楽でメシが食える、お金をもらえるなんて、
自分ってすごいと思っていました」と川口さんは振り返る。





しかし1年が過ぎて疑問を持つようになる。
「プロダクションの指示でいろんな場所を営業で回っていました。
18時頃からライブが始まり、夜中の2時、3時、
時には夜通し演奏を続けることもありました。
それでギャラは5000円程度。
確かに音楽でお金をもらえていましたが、正直、これではわりにあわない。
楽器にお金もかかるし、他のアルバイトをした方がはるかにお金はもらえる。
時間拘束も長いし、だんだんバカらしくなってしまいました」

その時、川口さんは思った。
「稼げる仕事をしたい」
音楽活動をやめて、とりあえず飲食店でアルバイトをするようになった。

大学卒業後はその流れで、カラオケチェーン店を運営する第一興商に入社。
当時、日本最大のカラオケ店であった歌舞伎町店に配属された。
アルバイトでの経験があることから25歳で店長に就任した。

川口さんは店長就任の1年前に結婚。25歳で第一子が誕生している。
歌舞伎町のカラオケ店長として働く日々だったが、転機が訪れた。
同じビルの地下1階に、芸能人や大企業の役員クラスも来るような、
高級な大人のクラブを運営している会社から、働かないかと誘われたのだ。

クラブはライブをやったりもする。
かつて音楽活動をしていたことから音楽のこともわかる。
カラオケ店長をやっている経験から接客のこともわかる。
このままカラオケ店に勤めるより稼げるかもしれないと考え、26歳で転職。
27歳で店長に就任した。

この時、第二子が産まれた。
月収は32万円 。27歳にしてはそこそこいい給料だろう。
でも川口さんの生活は苦しかった。
「収入は32万円だったが、妻と子供2人を養わねばならず、家賃は14万円。
残りで生活のやりくりをしていたが、生活がラクだと感じたことはありません。
何よりも毎日の夕方から翌朝まで働く生活。
しかも歌舞伎町という場所柄、時々恐い人たちやチンピラみたいな人たちも、
お客さんとしてやってくる。
スタッフがそそうをしようものなら、
それこそ命がけで店長として、謝罪しなければならない場面もあった。
いいお客さんも多かったですが、とてもしんどい仕事でした」

お客さんにはかわいがられ、事業で成功した人や、
有名人の方などにゴルフなどに連れていってもらったこともあった。
でもそんな時、川口さんはふと疑問に思ったのだ。
「自分は生活が苦しく、日々しんどい仕事をしているのに、
なぜこの人たちはこんなに裕福で時間も自由に人生を楽しんでいるのだろうか。
自分もこんなな人たちのようになりたい」

月収32万円では生活が苦しい。
月収50万円ぐらい稼げる仕事に就きたい。
お客さんのアドバイスから「営業の仕事なら稼げるらしい」と聞き、
29歳でクラブハウスを退職し、転職活動を始めた。

■2:月収は半減!できない営業マンからトップセールスに。
営業の仕事なら月収50万円ぐらい稼げるかもしれない。
そうしたら幸せな人生を歩めるはず。
そう思って、営業の会社の面接を受けにいった。
ところが、ことごとく面接で落とされるのだ。

29歳という年齢。妻と子供が2人いるため、ある程度の給与が必要になるというハンデ。
これまでの経歴に営業経験はなく、しかも夜の接客業。
昼間の営業会社はどこも雇ってもらえず、
「また飲食業界やアミューズメント業界に戻るしかないか」ともあきらめていた。

幸いにして7社目に面接を受けたSSI(エス・エス・アイ)という、
自己啓発プログラムを販売する営業会社に転職できた。
歩合比率も大きく「これなら稼げるぞ!」と意気揚々と、昼の会社員に転身したのだった。

ところが、入社しても営業成績はまったくダメ。
今まで仕事をしてきた接客業とはまるで違う。
アポイントをとるための電話営業もできず、
「電話かけるのが怖くて、時報に電話して、営業しているフリしていた」という状況。
月収50万円を夢見て転職したものの、営業成績が芳しくなく、月収は18万円に。
稼ぐどころか、クラブハウスの給料の半分以下になってしまった。

しかし川口さんには妻と子供2人いる。
このままではいけない。
そんな時、目に留まったのが、自分が販売していた、
成功プログラムであるナポレオン・ヒルの教材だった。

「成功するヒントはここにあるのではないか」
販売しているのでどんなプログラムかはある程度理解していたが、
自分のために勉強する意識で見たことはなかった。

「営業で成功して月収50万円を実現したい」
ナポレオン・ヒルの自己啓発教材を学んで気づいたのは、
「成功するには背水の陣でのぞむこと」だった。

とにかく仕事に全力を尽くそう。
同僚と飲みに行ったりする時間など、
生活の無駄を極力排して、仕事に集中した。
いつまでも前職の仕事の意識ではダメだと思い、
開き直って営業の電話をかけるようになった。

すると自分でもびっくりするぐらい営業成績がメキメキ上がっていった。
結果、入社1年目にトップセールスになり、
入社2年目には年間個人売上2億円を超すスーパー営業マンとなったのだ。

■3:会社退職も呼び戻されて31歳で4階級特進!
歩合比率が高かったので存分に稼ぐことができた。
今まで家族との時間をとる余裕もなく、20代は突っ走ってきた。
営業仕事で稼げる自信がついた川口さんは、入社2年が過ぎ、31歳で退職してしまう。
しばらくは家族とのんびり過ごしながら遊んでいた。

ところが退職してから5カ月後。
SSIから「戻ってきてくれないか」との声がかかった。
会社の業績が思わしくなく、トップセールスの実績を持つ川口さんに、
お呼びがかかったのだ。
「よし、また稼ぐか!」
そんな軽い気持ちで31歳の時に再入社を決めた。

再入社後もすぐに営業で結果を出した。
すると当時の社長から突然電話がかかってきた。
「会社の業績をアップするには何をしたらいいか?」
「私だったらこんな風にします」
何気なく答えたのだが社長の返答は意外なものだった。
「よし、わかった!おまえの好きなようにやれ」

一度退職して再入社して3カ月目。
まだ31歳の若手にもかかわらず、
4つのポストを飛び越し、営業本部長に任命されたのだ。

月収も一営業マン時代とは桁違いの待遇。
高層ビルの一角に専用の個室を持たせてもらえた。
社長の右腕として働くポジションを与えられたのだ。

一プレーヤーから300人近い営業社員をとりまとめるマネージャーに。
うれしい反面、慣れない仕事に四苦八苦。
ましてや突然の4階級特進にやっかみを持つ勢力もあった。
自分が信頼していた年上の部下が、実は社長に陰で、
川口さんを罵倒するメールを送っていたことなども後から発覚した。
そんなものすごい嫉妬もあった。
一方、川口さんに気に入られれば厚遇を受けられるかもと、
すり寄ってくる人も多数いた。

「今から考えればその時の私のマネジメントはよくなかった。
でも自分が成功したやり方を他の社員にも教えていくやり方で、
売上を回復させることはできました」

32歳で最年少の取締役に就任。
33歳の時には会社の年商を業界最大にまで伸ばすことに成功。
川口さんが今まで望んでいた給料のアップや、
会社内でのステータスを得て、成功しているかに見えた。

■4:ファンド売却により経営危機に。火中の栗を拾って再建社長に。
川口さんの活躍とともに会社の業績も回復し、
順風満帆な人生だったはずなのだが、会社に大きな転機が訪れる。
2004年に上場をめざすため、会社の保有株の一部が投資ファンドに渡り、
投資ファンドから送り込まれてきた役員主導の会社に生まれ変わったのだ。

川口さん以外のプロパーの取締役はすべて解任。
川口さんも取締役は解任されたものの、執行役員として残された。
36歳のことだ。この時、第三子が産まれている。

しかしこの投資ファンドが経営をミスリードしていく。
MBA的な教科書を持ち出し、今までの営業や経営のやり方をひっくり返してしまったのだ。
「こんなやり方ではうまくいかない!」
社長と川口さんとでファンド勢に訴えたものの、
経営知識のある頭のよいエリートたちは、自分たちのやり方を押し通した。
結果、どんどん売上は悪化。
ファンド体制前には潤沢だった会社の資金も一気に窮していくことになった。

ファンド売却から3年。
経営は悪化し、ファンド勢は株を返却して撤退。
数十億円の債務が残り、会社をたたむか、
民事再生するしか、残された道はないかに思われた。

「成功哲学を売っている会社がたたむか民事再生なんてあり得ない。
10万人のお客様のために、また、この価値ある成功哲学を後世に残すためにも、
会社をなんとしても存続・再生させるべきだ!」と川口さんは思ったという。

しかし目の前には到底返したがい借金。
社長をやれば個人保証させられ、失敗すれば身ぐるみはがされるリスクもある。
「そんなに言うなら、おまえが社長をやってみろ」
こうして川口さんは、ファンド勢によってズタズタになった会社を、
再生させるために、社長として就任することとなったのだ。

「お客様のために、そして売ってきた商品のためにも会社を再生したいという思いで、
社長になりましたが、仕事はつらいことばかりでした」と川口さんは言う。
同じ会社とはいえ、今までのように自分で営業するプレーヤーでもなければ、
売上を上げるための営業部隊を育成するためのマネージャーでもない。
やることといえば、金融機関や取引先を回り、
ひたすら頭を下げて、支払い期日のリスケをお願いする日々。

メインの大手メガバンクは手のひらをかえしたかのような態度だった。
今まではまったくこんな態度をしていなかったのに、
会社の状況が急変したことを知るや、
大手メガバンクの担当者はふんぞりかえって腕を組み、
タバコをぷかぷか吹かしながら「それでいつ金、返してくれるの?」
という態度に豹変したという。
それでも謝り倒してリスケのお願いに回った。

大変だったのは対外折衝だけではない。
会社再建のため、多くの社員をリストラせざるを得なくなった。
川口さん自ら社員のリストラを行ったことも何度もあった。
「これが一番つらかったです」と川口さんは語る。

ファンド勢が経営状況を悪化させてしまった内部事情を詳しく知らない社員たちからは、
「なんだ、あの無能な社長は!」と、
火中の栗をひろって会社を再建したいという川口さんの気持ちは理解されなかった。

今までとはまったく違うつらい仕事。
でも「お客様のために、そして、辞めていかざるを得なかった社員のためにも、
自分たちが売ってきた成功哲学の有効性を証明し、会社を続けなければならない」と
いう一心で、奇跡の再生。
3年で借金をゼロにするところまで再建した。
ここでもSSIで自ら販売してきた成功哲学を実践したことは言うまでもない。

■5:自分のしたいことをしよう。好きな仕事で独立へ
「社長業は私のしたいことではない。もっと自分のやりたいことをしたい」
川口さんにそんな思いが日に日に高まっていた。

内外の協力者の支えもあり、なんとか会社は立ち直った。
しかし、3年間のリストラとリスケジュールで大きく失わせてしまった会社の信用は、
自分で取り戻すより他の人に任せたほうがいい。
オーナーの意向も確認した。
これからの会社には、今の信用のない自分ではなく新しいフロントが必要だ。

そして、自分のしたいことは、企業の営業のサポートや営業マンの育成をすること。

独立しよう。

子供は3人。大学、高校進学を前にしてこれから最もお金がかかる年代だったが、
「2年、食いつなげる貯金があれば、しばらく無収入でもなんとかなるだろう」
と42歳にして独立を決意した。

「この時に気づいたんです。
月収50万円あれば幸せになれると思い、50万円になったら、
今度は月収100万円あれば幸せになれると思っていた。
社内で昇進し、営業成績を上げ、確かに収入面での目標は実現できたが、
そんなに幸せではなかった。むしろ苦しかった。
高層ビルに個室を持ち、都内に家を買って高級車に乗って、
それで幸せになったかというと、それも別に違う。
自分が楽しかったことは何だろうかと考えたら、
自分で物を売ったり、物を売るお手伝いをしたり、人材を育成することだった」

独立起業するための資金は貯金を取り崩すことなく、
これまで「成功」と思ってきた物品を売ることで調達した。
現金がないことで弱気になってはならないことと、
そもそもこれからの自分の人生にこうしたものはいらないと思ったからだ。

大企業の社長という肩書きがなくなり、一個人になった途端、去っていく人も多くいた。
SNSのつながりを切ってきた人も何人もいた。

でも川口さんの会社時代の活躍や奮闘を知っている人から、
「うちの営業の手伝いをしてほしい」といった声がかかるようになり、
今は主に企業の営業支援をすることで、お金を稼げるようになっている。
仕事は選べるようになり、本当に一緒にやりたい人とだけ仕事をしている。
またその後に新たな発展を続けているSSIともいい関係を築き、その手伝いもしている。

「大企業の社長をしている時より自分の好きな仕事ができている。
必要なお金もきちんと稼げている。
何より自分の時間はすべて自分でコントロールできるようになった。
好きな仕事をすることで、いわゆる“休む”必要がなくなったので、
大好きな運動と学習、家族との時間も大幅に増やした。
不安定さはありますが、その分、ご縁やいただく仕事に心から感謝できるようにもなった。
29歳の時に歌舞伎町の地下室で夢見た理想を、
今は生きることができています」と川口さんは話す。

・・・・・・・・・・・・

凄い経験である 特に
電話営業が怖くて時報に電話して時間を潰した
川口徹のエピソードは凡人そのもの、、いやいずれ社長になんてなれるはずないダメ社員の典型行動だろう。

それが一念発起し成功!!
すごいことだ




こうした自身の経験を踏まえながら、
個人向けのセールストレーニングもしている川口の〈何かで成功したいという人にアドバイス〉は

「3年間、自分のやりたいことを1つ決めて、
それを徹底的に勉強して極めればいい。
そう決めて3年間やり続ければ、たいがいのことはできる」

「好きなことが見つからない、やりたいことが見つからないなら、
机の上でばかり考えていないで、少しでも興味を持ったことに挑戦してみること。
行動を起こさなきゃ何も始まらない。
それでもやりたいことがわからないというなら、
今、目の前に与えられた仕事を極めるまで徹底してやってみればいい。
中途半端に仕事をしているから自分の人生が見えない」

「ただし、やりたいことで独立にチャレンジをするなら、
無収入でも最低2年間は生活できるくらいの貯金はためておいた方がいい。
今の生活を見直し、払わなくてもいいものを徹底的にカットする。
資金がなければ、これからの成功に不要なもので売れるものはすべて売って、事業のために投資する。
お金は後からどうにかするもの。あとは3年間、とにかく集中してやればいい」

幸せそうな人生を送っている人の裏には、
人には見えない絶え間ない努力や紆余曲折がある。
そこを見ずして「あの人はもとから能力があるから成功している」なんて、
言い訳してしまうのはもったいない。

3年間1つのことに絞ってやる。
これはとてもいいアドバイスだと思う。




株式会社トランセス社長 川口徹
妻・二人の愛娘・息子の5人家族。多摩の自然豊かな東京都調布市に在住。


■■波乱万丈の社長の武勇伝!成功へのエピソード集!! スーパーやる気のでる名言も!!
波乱万丈の社長の武勇伝!成功エピソード!!!







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日本一のドヤ街歌舞伎町のカラオケ屋の店長からダメ社員を経験して大社長になった男!! [社長 企業]

歌舞伎町のカラオケ店長から大成功を遂げた社長がいる。

30代で大企業社長になったのだ!!!まさに底から這い上がるジャパニーズドリームを地で行く社長だ、しかし!!なんとその後独立したという波乱万丈な社長、、、

~それが川口徹だ


川口徹は現株式会社トラセンスの代表取締役だ。

大学卒業後、第一興商、ホテル・アミューズメント企業で営業及び店舗マネージャーを経験、。つまりはカラオケ屋である。

その前や大学時代はミュージシャンとして活動していたという。

musicianを目指していた者に共感を覚える人は少なくない。
そしてミュージシャン経験者は大概苦労人でもある。


川口徹のサクセスストーリーはミュージシャンからはじまったといっても過言ではないかもしれない。

まずは経歴
大学卒業後、第一興商、ホテル・アミューズメント企業で営業及び店舗マネージャーを経験
1997年世界最大級の脳力開発企業エス・エス・アイに、
BtoC営業兼脳力開発インストラクターとして入社。
2年目に年間個人売上2億円を超すトップセールス賞及び、
ベストセールスマネージャー賞を受賞し営業本部長に昇進。
翌年にはプロパーとして最速最年少で取締役就任。
250名を超える組織のマネージャーとして、営業、出版、研修、カスタマーサポート部門を統括し、
会社を業界世界最大の売上へ成長せることに貢献。
2007年5月株式会社エス・エス・アイ代表取締役に就任。
創業者で日本の自己啓発業界のパイオニアである田中孝顕氏を始め、
国内外の権威からの直接指導、業務提携を経験し、2010年12月独立。





以上が川口社長の簡単な経歴である

川口徹の経歴だけみると順風満帆にみえるが

じつは波乱万丈の連続だったという



■1:ミュージシャン志望で山梨から上京。卒業後は歌舞伎町で働く日々
自己啓発の成功プログラム販売でトップセールスに輝き、社長まで務めた川口さんだが、
若い時は自己啓発とも営業とも縁のない、多分どこにでもいる一青年だった。

生まれは山梨県富士吉田市。
大学進学時に上京して東京に出てきた。
夢はミュージシャン。

大学時代は先輩とバンドを組み、音楽プロダクションに所属。
なんと音楽でお金をもらっていたという。

「その時は音楽でメシが食える、お金をもらえるなんて、
自分ってすごいと思っていました」と川口さんは振り返る。





しかし1年が過ぎて疑問を持つようになる。
「プロダクションの指示でいろんな場所を営業で回っていました。
18時頃からライブが始まり、夜中の2時、3時、
時には夜通し演奏を続けることもありました。
それでギャラは5000円程度。
確かに音楽でお金をもらえていましたが、正直、これではわりにあわない。
楽器にお金もかかるし、他のアルバイトをした方がはるかにお金はもらえる。
時間拘束も長いし、だんだんバカらしくなってしまいました」

その時、川口さんは思った。
「稼げる仕事をしたい」
音楽活動をやめて、とりあえず飲食店でアルバイトをするようになった。

大学卒業後はその流れで、カラオケチェーン店を運営する第一興商に入社。
当時、日本最大のカラオケ店であった歌舞伎町店に配属された。
アルバイトでの経験があることから25歳で店長に就任した。

川口さんは店長就任の1年前に結婚。25歳で第一子が誕生している。
歌舞伎町のカラオケ店長として働く日々だったが、転機が訪れた。
同じビルの地下1階に、芸能人や大企業の役員クラスも来るような、
高級な大人のクラブを運営している会社から、働かないかと誘われたのだ。

クラブはライブをやったりもする。
かつて音楽活動をしていたことから音楽のこともわかる。
カラオケ店長をやっている経験から接客のこともわかる。
このままカラオケ店に勤めるより稼げるかもしれないと考え、26歳で転職。
27歳で店長に就任した。

この時、第二子が産まれた。
月収は32万円 。27歳にしてはそこそこいい給料だろう。
でも川口さんの生活は苦しかった。
「収入は32万円だったが、妻と子供2人を養わねばならず、家賃は14万円。
残りで生活のやりくりをしていたが、生活がラクだと感じたことはありません。
何よりも毎日の夕方から翌朝まで働く生活。
しかも歌舞伎町という場所柄、時々恐い人たちやチンピラみたいな人たちも、
お客さんとしてやってくる。
スタッフがそそうをしようものなら、
それこそ命がけで店長として、謝罪しなければならない場面もあった。
いいお客さんも多かったですが、とてもしんどい仕事でした」

お客さんにはかわいがられ、事業で成功した人や、
有名人の方などにゴルフなどに連れていってもらったこともあった。
でもそんな時、川口さんはふと疑問に思ったのだ。
「自分は生活が苦しく、日々しんどい仕事をしているのに、
なぜこの人たちはこんなに裕福で時間も自由に人生を楽しんでいるのだろうか。
自分もこんなな人たちのようになりたい」

月収32万円では生活が苦しい。
月収50万円ぐらい稼げる仕事に就きたい。
お客さんのアドバイスから「営業の仕事なら稼げるらしい」と聞き、
29歳でクラブハウスを退職し、転職活動を始めた。

■2:月収は半減!できない営業マンからトップセールスに。
営業の仕事なら月収50万円ぐらい稼げるかもしれない。
そうしたら幸せな人生を歩めるはず。
そう思って、営業の会社の面接を受けにいった。
ところが、ことごとく面接で落とされるのだ。

29歳という年齢。妻と子供が2人いるため、ある程度の給与が必要になるというハンデ。
これまでの経歴に営業経験はなく、しかも夜の接客業。
昼間の営業会社はどこも雇ってもらえず、
「また飲食業界やアミューズメント業界に戻るしかないか」ともあきらめていた。

幸いにして7社目に面接を受けたSSI(エス・エス・アイ)という、
自己啓発プログラムを販売する営業会社に転職できた。
歩合比率も大きく「これなら稼げるぞ!」と意気揚々と、昼の会社員に転身したのだった。

ところが、入社しても営業成績はまったくダメ。
今まで仕事をしてきた接客業とはまるで違う。
アポイントをとるための電話営業もできず、
「電話かけるのが怖くて、時報に電話して、営業しているフリしていた」という状況。
月収50万円を夢見て転職したものの、営業成績が芳しくなく、月収は18万円に。
稼ぐどころか、クラブハウスの給料の半分以下になってしまった。

しかし川口さんには妻と子供2人いる。
このままではいけない。
そんな時、目に留まったのが、自分が販売していた、
成功プログラムであるナポレオン・ヒルの教材だった。

「成功するヒントはここにあるのではないか」
販売しているのでどんなプログラムかはある程度理解していたが、
自分のために勉強する意識で見たことはなかった。

「営業で成功して月収50万円を実現したい」
ナポレオン・ヒルの自己啓発教材を学んで気づいたのは、
「成功するには背水の陣でのぞむこと」だった。

とにかく仕事に全力を尽くそう。
同僚と飲みに行ったりする時間など、
生活の無駄を極力排して、仕事に集中した。
いつまでも前職の仕事の意識ではダメだと思い、
開き直って営業の電話をかけるようになった。

すると自分でもびっくりするぐらい営業成績がメキメキ上がっていった。
結果、入社1年目にトップセールスになり、
入社2年目には年間個人売上2億円を超すスーパー営業マンとなったのだ。

■3:会社退職も呼び戻されて31歳で4階級特進!
歩合比率が高かったので存分に稼ぐことができた。
今まで家族との時間をとる余裕もなく、20代は突っ走ってきた。
営業仕事で稼げる自信がついた川口さんは、入社2年が過ぎ、31歳で退職してしまう。
しばらくは家族とのんびり過ごしながら遊んでいた。

ところが退職してから5カ月後。
SSIから「戻ってきてくれないか」との声がかかった。
会社の業績が思わしくなく、トップセールスの実績を持つ川口さんに、
お呼びがかかったのだ。
「よし、また稼ぐか!」
そんな軽い気持ちで31歳の時に再入社を決めた。

再入社後もすぐに営業で結果を出した。
すると当時の社長から突然電話がかかってきた。
「会社の業績をアップするには何をしたらいいか?」
「私だったらこんな風にします」
何気なく答えたのだが社長の返答は意外なものだった。
「よし、わかった!おまえの好きなようにやれ」

一度退職して再入社して3カ月目。
まだ31歳の若手にもかかわらず、
4つのポストを飛び越し、営業本部長に任命されたのだ。

月収も一営業マン時代とは桁違いの待遇。
高層ビルの一角に専用の個室を持たせてもらえた。
社長の右腕として働くポジションを与えられたのだ。

一プレーヤーから300人近い営業社員をとりまとめるマネージャーに。
うれしい反面、慣れない仕事に四苦八苦。
ましてや突然の4階級特進にやっかみを持つ勢力もあった。
自分が信頼していた年上の部下が、実は社長に陰で、
川口さんを罵倒するメールを送っていたことなども後から発覚した。
そんなものすごい嫉妬もあった。
一方、川口さんに気に入られれば厚遇を受けられるかもと、
すり寄ってくる人も多数いた。

「今から考えればその時の私のマネジメントはよくなかった。
でも自分が成功したやり方を他の社員にも教えていくやり方で、
売上を回復させることはできました」

32歳で最年少の取締役に就任。
33歳の時には会社の年商を業界最大にまで伸ばすことに成功。
川口さんが今まで望んでいた給料のアップや、
会社内でのステータスを得て、成功しているかに見えた。

■4:ファンド売却により経営危機に。火中の栗を拾って再建社長に。
川口さんの活躍とともに会社の業績も回復し、
順風満帆な人生だったはずなのだが、会社に大きな転機が訪れる。
2004年に上場をめざすため、会社の保有株の一部が投資ファンドに渡り、
投資ファンドから送り込まれてきた役員主導の会社に生まれ変わったのだ。

川口さん以外のプロパーの取締役はすべて解任。
川口さんも取締役は解任されたものの、執行役員として残された。
36歳のことだ。この時、第三子が産まれている。

しかしこの投資ファンドが経営をミスリードしていく。
MBA的な教科書を持ち出し、今までの営業や経営のやり方をひっくり返してしまったのだ。
「こんなやり方ではうまくいかない!」
社長と川口さんとでファンド勢に訴えたものの、
経営知識のある頭のよいエリートたちは、自分たちのやり方を押し通した。
結果、どんどん売上は悪化。
ファンド体制前には潤沢だった会社の資金も一気に窮していくことになった。

ファンド売却から3年。
経営は悪化し、ファンド勢は株を返却して撤退。
数十億円の債務が残り、会社をたたむか、
民事再生するしか、残された道はないかに思われた。

「成功哲学を売っている会社がたたむか民事再生なんてあり得ない。
10万人のお客様のために、また、この価値ある成功哲学を後世に残すためにも、
会社をなんとしても存続・再生させるべきだ!」と川口さんは思ったという。

しかし目の前には到底返したがい借金。
社長をやれば個人保証させられ、失敗すれば身ぐるみはがされるリスクもある。
「そんなに言うなら、おまえが社長をやってみろ」
こうして川口さんは、ファンド勢によってズタズタになった会社を、
再生させるために、社長として就任することとなったのだ。

「お客様のために、そして売ってきた商品のためにも会社を再生したいという思いで、
社長になりましたが、仕事はつらいことばかりでした」と川口さんは言う。
同じ会社とはいえ、今までのように自分で営業するプレーヤーでもなければ、
売上を上げるための営業部隊を育成するためのマネージャーでもない。
やることといえば、金融機関や取引先を回り、
ひたすら頭を下げて、支払い期日のリスケをお願いする日々。

メインの大手メガバンクは手のひらをかえしたかのような態度だった。
今まではまったくこんな態度をしていなかったのに、
会社の状況が急変したことを知るや、
大手メガバンクの担当者はふんぞりかえって腕を組み、
タバコをぷかぷか吹かしながら「それでいつ金、返してくれるの?」
という態度に豹変したという。
それでも謝り倒してリスケのお願いに回った。

大変だったのは対外折衝だけではない。
会社再建のため、多くの社員をリストラせざるを得なくなった。
川口さん自ら社員のリストラを行ったことも何度もあった。
「これが一番つらかったです」と川口さんは語る。

ファンド勢が経営状況を悪化させてしまった内部事情を詳しく知らない社員たちからは、
「なんだ、あの無能な社長は!」と、
火中の栗をひろって会社を再建したいという川口さんの気持ちは理解されなかった。

今までとはまったく違うつらい仕事。
でも「お客様のために、そして、辞めていかざるを得なかった社員のためにも、
自分たちが売ってきた成功哲学の有効性を証明し、会社を続けなければならない」と
いう一心で、奇跡の再生。
3年で借金をゼロにするところまで再建した。
ここでもSSIで自ら販売してきた成功哲学を実践したことは言うまでもない。

■5:自分のしたいことをしよう。好きな仕事で独立へ
「社長業は私のしたいことではない。もっと自分のやりたいことをしたい」
川口さんにそんな思いが日に日に高まっていた。

内外の協力者の支えもあり、なんとか会社は立ち直った。
しかし、3年間のリストラとリスケジュールで大きく失わせてしまった会社の信用は、
自分で取り戻すより他の人に任せたほうがいい。
オーナーの意向も確認した。
これからの会社には、今の信用のない自分ではなく新しいフロントが必要だ。

そして、自分のしたいことは、企業の営業のサポートや営業マンの育成をすること。

独立しよう。

子供は3人。大学、高校進学を前にしてこれから最もお金がかかる年代だったが、
「2年、食いつなげる貯金があれば、しばらく無収入でもなんとかなるだろう」
と42歳にして独立を決意した。

「この時に気づいたんです。
月収50万円あれば幸せになれると思い、50万円になったら、
今度は月収100万円あれば幸せになれると思っていた。
社内で昇進し、営業成績を上げ、確かに収入面での目標は実現できたが、
そんなに幸せではなかった。むしろ苦しかった。
高層ビルに個室を持ち、都内に家を買って高級車に乗って、
それで幸せになったかというと、それも別に違う。
自分が楽しかったことは何だろうかと考えたら、
自分で物を売ったり、物を売るお手伝いをしたり、人材を育成することだった」

独立起業するための資金は貯金を取り崩すことなく、
これまで「成功」と思ってきた物品を売ることで調達した。
現金がないことで弱気になってはならないことと、
そもそもこれからの自分の人生にこうしたものはいらないと思ったからだ。

大企業の社長という肩書きがなくなり、一個人になった途端、去っていく人も多くいた。
SNSのつながりを切ってきた人も何人もいた。

でも川口さんの会社時代の活躍や奮闘を知っている人から、
「うちの営業の手伝いをしてほしい」といった声がかかるようになり、
今は主に企業の営業支援をすることで、お金を稼げるようになっている。
仕事は選べるようになり、本当に一緒にやりたい人とだけ仕事をしている。
またその後に新たな発展を続けているSSIともいい関係を築き、その手伝いもしている。

「大企業の社長をしている時より自分の好きな仕事ができている。
必要なお金もきちんと稼げている。
何より自分の時間はすべて自分でコントロールできるようになった。
好きな仕事をすることで、いわゆる“休む”必要がなくなったので、
大好きな運動と学習、家族との時間も大幅に増やした。
不安定さはありますが、その分、ご縁やいただく仕事に心から感謝できるようにもなった。
29歳の時に歌舞伎町の地下室で夢見た理想を、
今は生きることができています」と川口さんは話す。

・・・・・・・・・・・・

凄い経験である 特に
電話営業が怖くて時報に電話して時間を潰した
川口徹のエピソードは凡人そのもの、、いやいずれ社長になんてなれるはずないダメ社員の典型行動だろう。

それが一念発起し成功!!
すごいことだ




こうした自身の経験を踏まえながら、
個人向けのセールストレーニングもしている川口の〈何かで成功したいという人にアドバイス〉は

「3年間、自分のやりたいことを1つ決めて、
それを徹底的に勉強して極めればいい。
そう決めて3年間やり続ければ、たいがいのことはできる」

「好きなことが見つからない、やりたいことが見つからないなら、
机の上でばかり考えていないで、少しでも興味を持ったことに挑戦してみること。
行動を起こさなきゃ何も始まらない。
それでもやりたいことがわからないというなら、
今、目の前に与えられた仕事を極めるまで徹底してやってみればいい。
中途半端に仕事をしているから自分の人生が見えない」

「ただし、やりたいことで独立にチャレンジをするなら、
無収入でも最低2年間は生活できるくらいの貯金はためておいた方がいい。
今の生活を見直し、払わなくてもいいものを徹底的にカットする。
資金がなければ、これからの成功に不要なもので売れるものはすべて売って、事業のために投資する。
お金は後からどうにかするもの。あとは3年間、とにかく集中してやればいい」

幸せそうな人生を送っている人の裏には、
人には見えない絶え間ない努力や紆余曲折がある。
そこを見ずして「あの人はもとから能力があるから成功している」なんて、
言い訳してしまうのはもったいない。

3年間1つのことに絞ってやる。
これはとてもいいアドバイスだと思う。




株式会社トランセス社長 川口徹
妻・二人の愛娘・息子の5人家族。多摩の自然豊かな東京都調布市に在住。


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